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校長コラム

鍼や灸で病が治ったり、体調が良くなったりって不思議ですよね。古代の中国から始まったという鍼灸技術は、とても奥深い内容を含んでいます。それは、病に苦しむ大切な人たちを何とか救いたいという人類共通の願いと、生命が自ら治ろうとする力を微細な刺激でもって最大限に引き出そうとする工夫の積み重ねから生まれたものです。その足跡を、いくつか紹介しましょう。

東洋鍼灸専門学校 校長 大浦宏勝

 

2022.9-1 校長コラム③ 鍼灸の日本への伝来(1)――大和朝廷の成立と漢方・鍼灸の伝来

前回は、鍼灸の発祥と起源についてお話ししましたが、今回は鍼灸がどのようにして日本に伝わって来たのか、少し歴史を振り返ってみましょう。

おそらく縄文時代の頃から、人々は手を当てて痛みや病の軽減を図っていたのでしょう。治療することを「手当てと呼ぶのはその証拠です。また、犬が胸やけする時に野草を噛んだりするように、古代の人々も胃が痛ければセンブリを噛んだり、傷口にオトギリソウを貼ったりしたのでしょう。

ただし歴史記録を調べてみると、漢方や鍼灸が最初に日本に伝わったのは5世紀のことで、新羅から金武が、百済から徳来が渡来して医療を伝えました。鍼灸はというと、562年欽明天皇の時代に、中国の呉の国から智聡(ちそう)という人が医薬書など164巻を携えて来日しましたが、その中に「明堂図(めいどうず)」という鍼灸のツボが書かれた本もありました。また一説に、紀河辺多免麻呂という人物が伝来した鍼灸書を欽明天皇から賜り、その孫の幾男麻呂が新羅に渡って陳の鍼医から鍼術を学んで帰国した、とも言われます。

その後7世紀になり、遣隋使・遣唐使として医師の恵日が医薬や鍼灸の教科書を招来し、律令制度が整備されると、医博士・医師・医生と並んで、鍼博士・鍼師・鍼生、按摩博士・按摩師・按摩生といった医療制度も設けられます。中央には典薬寮(=医科大学)ができ、各地にも医師や鍼師が派遣されました。984年には鍼博士・医博士の丹波康頼が唐伝来の医学書をまとめた『医心方』全30巻を編纂します。この書の総論につづく第2巻は鍼灸篇で、いかに鍼灸を重視していたかが知れます。しかし、こうした医療制度も長続きはせず、武士の台頭と律令制度の崩壊とともに有名無実となってしまいます。

 

これに替わって民間の医療を担ってきたのが、僧医と呼ばれるお坊さんたちや、軍医・馬医と呼ばれる武家集団のなかの医師たちです。中世の時代は海外からの医療情報の伝来は少なく、「仏教医学」と呼ばれる密教などと結びついた呪術・お札・水掛けとともに、民間薬や出来物を切開する外科的な鍼治療が行われたほか、民衆の間では灸治が盛んになりました。鍼治療は簡単な絵巻物をテキストに、太く長い鍼を用いたため、誤治も多く強い痛みに悶絶することもありました。ですから鍼は、重病や手負い傷で意識不明の者に対する「反し鍼」として使われることが多かったようです。

現代のように、鍼治療がお灸とともに民間で健康維持のために行われるようになるには、江戸時代の到来を待たねばなりませんでした。

 

2022.9-2 校長コラム④ 鍼灸の日本への伝来(2)――江戸時代に独自の発展をとげた日本鍼灸

中世の仏教医学に基づく鍼灸も、江戸時代に入るころから大きく変化します。きっかけは豊臣秀吉の朝鮮出兵でした。当時は朝鮮半島の方が医学は進んでおり、朝鮮からたくさんの医学書や鍼医、そして活字印刷技術ももたらされます。『難経』や『医方大成論』が出版され、江戸初期には『黄帝内経』や『十四経発揮』も出版されました。

医学の世界では室町後期から曲直瀬道三や永田徳本が李朱医学の基づく後世派を広め、道三は『鍼灸集要』を著します。彼は経穴にも詳しく、ツボは『十四経発揮』に基づくべきだと提唱しましたが、実際の治療は薬方と灸治のみでした。道三の跡を継いだ曲直瀬玄朔は、灸治のテキスト『日用灸法』を著します。

この頃、鍼灸の世界では禅僧無分が打鍼法を始めました。無分から打鍼を習ったのが御薗意斎です。意斎からは多くの弟子が生まれ、打鍼法は世に広まりました。打鍼法の特長は、全身どこの病でも腹部のみに鍼することと、浅く刺入した太い金鍼を小鎚で叩き振動で腹部の硬さを和らげることです。無分は、これまでの太く長い鍼を捻り入れるやり方では、難病の母を治せなかったことから、工夫して打鍼法をあみだしたと言われます。

意斎が京都で活躍しはじめた頃、杉山和一が伊勢の地で生まれます。武家の長男でしたが、幼くして失明します。当時の盲人は、当道座という全国互助団体に所属し、琵琶や三味線など音曲のみを仕事にしてましたが、江戸に盲人鍼医の山瀬琢一がいることを知り、江戸に出ました。盲人の和一が鍼の道を究めるのは大変困難だったようです。物覚えが悪く太目の鍼を痛まぬように刺せなかった和一は、一度破門されます。失意の中で江ノ島にて断食修行をした時に、衰弱で倒れた手に松葉の入った管様のものを手にしたことから、管鍼法の着想を得たと言われます。和一が20歳を過ぎた頃のことでした。

当時、鍼灸師たちの世界では、教科書といった物はありません。経穴も各流派ごとに位置も名前も違っていました。中国から明代の医学、経絡・経穴の理論が普及し始めるのは、江戸前期の中頃(1640年頃)です。この頃、和一は京都に出て山瀬の師家にあたる入江豊明に師事します。京都で最新の明医学を学び管鍼法の技術を完成させた和一は、勇躍江戸に向かい、幕府にも認められ、世界でも初めての盲人教育の学校「杉山流鍼治学問所」を起ち上げました。管鍼法の特長は、管を通して細い鍼を正確なツボの位置に痛みなく刺せることと、管を押したり叩いたりして刺鍼効果を増幅させることです。実は管鍼法には、打鍼法からのヒントや影響が多く見られます。撚り鍼の技法と打鍼の振動効果をミックスさせ、完成させたものが管鍼法なのです。

こうして日本の刺鍼技術は大きく進歩し、管鍼法は今や世界中で使われることとなってきました。日本の鍼灸って世界にも誇れるものなんですよ!

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2022.8 校長コラム② 鍼灸の発祥と起源(2)――ヨーロッパアルプス山脈の雪渓で発見された「アイスマン」

1991年9月19日、アルプスの溶けた雪の下からジモン夫妻によって、青銅器時代前期のミイラが発見されました。「エッツィ」または「アイスマン」と呼ばれるこのミイラは、その後2012年に、イタリアの南チロル考古学研究所にて解凍調査が行われ、身体特徴やDNAの型、病気や死因などが解明されました。その結果は我が国でも2013年3月24日に、NHKスペシャル「アイスマン~5000年前の男は語る~」という番組で公開されました。

ここから発見された事実は、東洋医学を学ぶ私たちにも衝撃的なものでした。47歳だったこの男は腰椎すべり症を患っており、背中や脚に入れ墨の痕がありました。その位置は、胃兪・三焦兪・腎兪・崑崙など、腰痛に効果のある東洋医学でいうツボに該当するというものでした。つまり、5300年前のヨーロッパアルプス山脈付近でも、ツボ治療やハーブ治療を含む高度な医療技術があったと推測されたわけです。

洋の東西を問わず、単純なツボ治療は新石器時代からあったのかも知れません。しかし、コラム①に述べたように、中国では戦国時代(紀元前5世紀~BC.221年)に鍼・灸・温罨法ともに医療手段として整えられ始め、「扁鵲」という名医らが活躍していました。そして前漢時代(BC.206~AD.8年)を通じて、陰陽・五行説に基づく医学の理論化が進み、後漢時代(AD.25~AD.220年)になって『黄帝内経』が編纂され『素問』と『霊枢』(当時は『針経』と呼ばれていました)として結実されました。

 

鍼灸治療に関する最古の文献とされる『霊枢』は、前漢時代の鍼灸諸流派の断片的諸文献を整理統合する作業の中から生まれた書物といえます。単なるツボ療法だった治療は、紀元前2世紀の「足臂」や「陰陽」の名を冠した『灸経』の段階で、主治症が整理され、臓腑と経脈が関連づけられ、肺経に始まり最後に肝経に至り再び肺経に戻るという経脈の流注と循環理論となり、治療ポイントとしての「経穴」が整理されてゆきました。こうして、経絡経穴理論の完成された形を提示したものが、『霊枢』経脈篇という文章です。

2022.8 校長コラム① 鍼灸の発祥と起源(1)――1、中国前漢時代の墳墓から出土した金鍼・灸経・経脈人形

中国にて鍼灸が発祥した正式な年代は分かっていませんが、紀元前2世紀の前漢時代初期には、間違いなく医療体系の一つとして鍼灸の理論と道具が成立していました。

その証拠に、湖南省長沙(ちょうさ)市で発掘された馬王堆漢墓からの出土品は世界をビックリさせました。この墓は紀元前168年に埋葬された長沙国の丞相(じょうそう)・利蒼(りそう)夫妻のもので、夫人の死体はまだピチピチとしており、手には漢方薬を握っていました。また息子の墓からは、『足臂(そくひ)十一脈灸経』『陰陽(いんよう)十一脈灸経』という、経脈と主治症を記載した帛書(はくしょ)(絹布に書かれた書物)が発見されました。これらの医書は、後漢時代に完成されたといわれる『黄帝内経・霊枢』経脈篇の原型にあたるものです。

また、河北(かほく)省満城県で発掘された、紀元前112年没の中山王劉(おうりゅう)勝の墓からは、金銀製の医療鍼が5本出土しています。

さらに、四川省綿陽(めんよう)市で発掘された、紀元前2世紀の双包山(そうほうざん漢墓からは、全体が黒漆塗りで、左右に各々9本と背部正中に1本の、経脈と思われる朱漆の線が描かれた25㎝の人形が出土しました。同様の人形は、四川省成都(せいと)市の老官山(ろうかんざん)漢墓からも出土しています。

一説によれば、今から1万年以上前の新石器時代には、砭石または石針(いしばり)と呼ばれる尖った石片で、ツボを突いたり切開して膿を出したりする、原始的な医療が行われていたとされます。そこから、動物の骨で作った骨(ほね)針、竹針(「箴(しん)」の字の語源)、陶器の破片を利用した陶針(とうしん)も使われるようになりました。金属の鍼は、戦国時代(紀元前5世紀~BC.221年)頃に作られ始めたといわれます。

灸は、中国医学、モンゴル医学、チベット医学でも用いられており、中国では約3000年前に北方地方において発明されたとされています(『黄帝内経・素問』異法方宜論篇)。そして春秋時代末から戦国時代には、「灸」はすでに医療として用いられ、『孟子』には灸治療に対する記載があります。しかし、温熱による治療法としては、それを遡ることはるか昔、北京原人の遺跡から熱した石が発見されており、戦国時代には、熱した砭石を患部に当てる方法や、火で温めた石を身に付け保養する「温石」という温罨法も行われていました。

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